円応寺は、小さいけれど記憶に残るお寺です。
まずコンセプトがはっきりしていて、祀られているのはご本尊の閻魔大王像をはじめとする、死後に冥界で出会う「十王」像です。
その閻魔大王坐像がなかなかに迫力があり、ユーモラスでもあり、とても強く印象に残ります。
鎌倉には本当に数多くの寺社があって、それぞれに立派だったり美しかったりします。
その数ある中で、幹線道路沿いに唐突にあるこの小さなお寺の閻魔さまが強く心に残るのは、わけがあるのです。
場所は北鎌倉駅から鶴岡八幡宮に続く横浜鎌倉線。
建長寺を超えたちょっと先の右側に、見落としそうなほど小さくて急な石段があって、上って行くと山門があります。
拝観料は200円。
受付の方がわざわざ「写真OKです」と言ってくださるので、撮らせてもらいました。
境内に入ると、お堂をバックに蝋燭の灯火が温かく目に映ります。
そしてお堂に入ると、まず正面に迫力の閻魔大王坐像が迎えてくれます。
鎌倉時代の運慶作とも伝わる閻魔大王像。死際から生還した運慶が笑いながら彫ったから、笑っているようにも見えるという伝承があるそうです。
でも私にとっては運慶作かどうかはどっちでも良くて。
もう10年近くも前になりますが初めてこのお寺に参拝した時、ちょうど小学生だった長女の子育てに苦戦してた頃でした。
家族と鎌倉に遊びに出かけ、何の前情報もなく、通りすがりに見かけたから立ち寄った円応寺。
そして、閻魔大王像を拝んで、前に掲示された説明書きを読みました。
その文章の一部をそのままこちらに写させていただきます。
『閻魔大王は前世の罪のむくいとして亡者を地獄に落とします。しかし、亡者に地獄の苦しみを与えた閻魔大王もそのむくいを受けなければならないのです。〈中略〉そのくるしみは亡者が地獄で受けるどの様な苦しみよりも苦しいと言われています。』
それまでは、閻魔大王はただ地獄で罪人に罰を与える恐いだけの存在だと思っていました。
でもこれを読んで、閻魔大王は亡者の罪を戒めることで自身はさらに強い苦しみに耐えなければならないと言う事を初めて知りました。
閻魔大王だって、できれば全ての亡者を楽園に迎え入れたい。そうすれば自らも苦しまなくて良いのだから。でも閻魔大王は、罪をおかした者を見てみぬふりはできない。閻魔大王は全ての者が罪を犯さないことを願っている。
もう1度目前の閻魔大王坐像を拝んだら、この目と口を大きく開いた真っ赤な顔がとても温かく感じました。
何より、痛みと苦しみの葛藤の中で、きっと誰よりも世界の平和を願っているであろう閻魔大王が、自分をはじめとした〈母親〉というものと重なって、泣けてきました。
怒られるでしょうか。でもそう感じてしまったのです。
母親じゃなければ、いつまでも理想の自分像でいられたろう。母親じゃなければ、こんなに嫌な自分と向き合わずにすんだかもしれない。母親であることは時にものすごく苦しい。
でも、この子たちの母親じゃない道なんて、私には考えるまでもなくありえない。
その頃よく感じていた思いが、目の前の閻魔大王像に重なった瞬間でした。
あれから何年もたち、最近はあの頃ほど子育てで苦しい思いをする事はありません。
本当は正しい閻魔様の拝し方は、自分の罪を懺悔することです。
でも私は今でも円応寺の閻魔大王像をお参りするとき、心の中で「良い母親でいられますように」と願います。
「良い母親」でありたいなんて、傲慢かなと思いつつ、常にそう胸においておくことを閻魔様に約束しているのです。
円応寺の閻魔大王像は私の心の友です。
今回はいつもにも増してセンチな長文になってしまいました。
最後に、閻魔大王坐像の左右には取り囲むように「十王」像が鎮座していて、その最後に祀られているのが「延命地蔵」像です。
罪人の変わりに閻魔大王に侘びて罪を許してもらってくださるというこのお地蔵さまは、女性だと説かれているそうです。
そして、お地蔵さまと閻魔大王は同一という話もあります。
今回あらためてお寺でもらったパンフレットを読んでいたら、『前生で悪行を行い地獄の苦しみを受けているものでも自らの罪を認め心から懺悔すれば、閻魔様はお地蔵様に身を変えて地獄の底まで救いに行きます。』とありました。
更に縁起について書いてあるところを読むと、この閻魔大王像はある逸話から「子育て閻魔」と呼ばれているとも。
それを知り、なにか腑に落ちたように感じて。
円応寺の閻魔大王さまに対していろいろと間違っている私ですが、少しだけ間違ってなかったところもあるのかな、と。
円応寺の閻魔さまに母性を見て、自分と重ねてしまう罪深い私ですが。
また会いに行こう、とこれを書いていて思いました。
閻魔さまは、あの真っ赤な顔で待っていてくださいます。